人間とは何でしょうか
生とは何でしょうか
欲とは何でしょうか
ひとはそのことに、目をそらしていきています
だからこそ私はそのことを世に問いたいのです
私の作品を見てほしいのです
お待ちしています あなたを 俗世を
草々
正気の人間ならば「怪文書」の一言で片付ける以外なさそうな文面だが、わたしはこの奇怪なる文面によって恐怖が、いやそれ以上に不気味なる快感が、まるで毒蛇に噛まれたかのごとくジワリジワリと身に染み渡るのを認めずにはいられなかった。
我に返り、詳しく問い質さんとその男を眼前に求めてもやはりというべきか、その姿は無く、電話応対に追われた女子社員達による社交辞令の交響曲が走らせるペンの調べを添えて、心地よく響き渡るばかりであった。
時計の短針がぶら下がり始めた頃であろうか、いても立ってもいられなくなった自分に戸惑いながらも、わたしは早々に社を辞し、その男のもとへ向かうことにした。後で気付いた事だが、その紙片の左端には「東京都文京区云々」と住所らしきものが記されており、そこへ向かえばかれに会えるのに違いなかった。
最寄となるはずの駅へと降り立ち、目的の地を求めしばし彷徨う。すでに辺りは夕陽の支配するところとなっていた。今にも地に堕ちんとす太陽が、己の最期かくあるべしとばかりに紅く、紅く、無実の我らを照らしつけ、わたしを含む立体という立体は不当にも長く仰々しい影法師を背負わされる羽目に陥っていた。
そうこうするうちにある建物が目に入った。それは、明治大正期に見られがちな和と洋が複雑に絡み合った代物で、その手のもの特有の妙ななまめかしさを醸し出していた。さらにその敷地は近隣のものの云倍にも及んでいた。住所を確認すると、直感に違わずそこがわたしの目的地であった。
取り敢えずは様子をうかがおうと、敷地に足を踏み入れる。ところが玄関に差し掛かるよりも前に、先程の微笑がわたしの目に飛び込んだ。
「待ち侘びておりました」
わたしはその建物の一室へと案内された。天井には漆塗りの柱が格子状に並べられ、そこに一際巨大なシャンデリアがぶら下げられていた。床には赤く染め抜かれた絨毯が地平線から見渡す海のごとくどこまでもしきつめられていて、その色は窓際のカーテンにまで連なっていた。
かれは部屋の隅にあるテーブルセットにわたしを案内するとこれまた朱いワインをグラスへ注ぎ私の目の前においた。その後は不気味な沈黙が保たれ、そこにかれの相も変らぬ微笑が色を添えた。たまりかねた私は口火を切った。
「作品を見よとは一体如何なることでございましょう。」
かれは一呼吸おくと、先程までの微笑を奥にしまい、私の前に置かれたワイングラスの一点を、ただひたすら見つめながら口を開いた。
「これからわたくしの申し上げることを、腰を据えてお聞きになって下さい。くれぐれも腰を据えてでございますよ。わたくしは元来、知りたいという好奇の念が異常なまでに強い人間でございます。確かに、幼少の時分ならば誰しも好奇の念は旺盛なものです。しかし正常な人間ならば、それは年を重ねるに連れて物欲、性欲、名誉欲といった様々な欲望に置き換えられていきます。ところがどうしたことでございましょう。不思議な事に、わたくしはそれが置き換えられるどころか、ますます強まるばかりでございました。そのうちに、生とは何なのか、人は何を求め生きるのか、いや、そもそも求めるがゆえに生きるのか、生きているがゆえに求めるのかという、ある意味我々にとって全ての根幹をなす命題について、答を導きたい、たとえ導けずともそれに近付けねばという、強い呪縛に取り付かれてしまいました。その点において、世の人々は何とも怠惰なものでございます。この命題を疎み、恐れ、常識などという安全な領域で目先の欲を追い続けております。けれども、それはある意味賢明なのかもしれません。真実を知れば知るほど希望は失望へと代わり、夢が幻想である事をも知るところになるわけですから。」
ここでまた一息つくと、彼はそのワイングラスから視点を移し、私の目を射抜くように見据え、かつその口元をゆっくり綻ばせた。
「しかしわたくしには彼らの小賢しさが恨めしくて恨めしくてなりませんでした。私の我慢も、ついに臨界点に達しました。彼らに裁きを下す時がきたのです。わたくしの作品を白日の下にさらすときが来たのです。そしてあなたはわたくしの作品を世に伝道する役目を果たすのです。私の作品とは、他でもない、人間を材料とした、人体を材料とした作品です。」
わたしは、無論その言葉の意味するところを深く理解する余裕など無かった。ただただ、徐々に言い知れぬ妖しさを増すかれの形相、そしてかれの唇より現世に解き放たれる奇怪なる旋律に、飲み込まれゆく己の心を、見届けるのが精一杯であった。
程なくかれは席を立ちその屋敷の離れの小屋へと私を案内した。そこは浴場であるらしかったが豪華絢爛な母屋にはまったく似つかわしくない、荒れるに任せた代物であった。壁の色は剥げ落ち、むきだしの柱は風雨に晒され腐り切っている。さらにその右端には薄いベニヤの木戸がつけてあった。かれはその木戸の前で歩みを止めると、その扉を開くようわたしに促した。わたしは錆の目立つ取っ手を握り、おそるおそる前向きの力を込めた。
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