1.善悪と利他・利己



 善悪とはそもそも何なのか。そのことについて私たちが深く探求する事はあまりないかも知れない。私たちは、教育、あるいは直感などによって、半ば無意識のうちに善悪の分別ができるようになっている。しかし、その行為が何故『善い(あるいは悪い)』のかについて、改めて考えたことはないという人がほとんどなのではないだろうか。そこで、これより善悪の定義についてともに考えていきたい。
 まず、具体的に『善い行い』、『悪い行い』の例を挙げてみてもらいたい。恐らく『善い行い』については「他の人に対して親切にする」、「社会に貢献する」、「弱者に手助けをする」などを挙げられる方が多いだろう。あるいは、組織(会社など)の内部においては「自分が所属する組織、(会社)に貢献する」などを挙げる方がいらっしゃるかもしれない。一方、『悪い行い』については「わがままを言って他人に迷惑をかける」、「定められたルールを破る」「嘘をつく」などを挙げられるのではないかと思う。
 では、ここで読者の皆さんに考えてもらいたい。皆さんは今挙げた「善い行い」と「悪い行い」を、何を基準にして振り分けたのだろうか。言い換えるならば何を基準にしてある行為に対する善悪を判断しているのだろうか。
答えを先に言ってしまおう。それは「他者、社会、組織に対する貢献度」である。すなわち、自分の都合を犠牲にして、他人や社会、組織の都合に合わせる、利他的な行為を善、逆に他人や社会、組織の都合よりも自分の都合、欲望を優先する、利己的な行為が悪と定義しているのである。勿論皆さんの中での善悪の定義というのはそれぞれの価値観によって左右されるから、少しずつ違ってくると思う。しかし「社会通念としての善悪の定義」は上記のものとみてほぼ間違いないといえよう。実際、社会的規範となる「善い」人物像として「利己的」人間を挙げる事はまず考えられない。
 善=利他的行為、悪=利己的行為・・・・。「言われてみれば確かにそうだな」と多くの方が感じておられることかと思う。しかし勘の鋭い方はこの定義対して疑問を感じられるかも知れない。その疑問とは「善い行い」は利己的要素を含まないのかということである。
 皆さんも「善いこと」をして満足感を得たという経験がきっとおありだと思う。お年寄りに席を譲った後に「善いことをしたな」と機嫌をよくしたり、ボランティア活動に精を出して「世の中のために役に立ててよかったな」という満足感に浸ったりといった経験は誰にでもあるのではないだろうか。このことは「善い行い」が利己的な要素を含むということを端的に表している。
 ところが、こういう議論を展開すると「自分は純粋に人の(社会の)役に立ちたいだけなんだ。自分自身が満足感を得ようなんて邪な気持ちはない。」とおっしゃる方が必ず現れる。もし読者である皆さんもこのような心境でいらっしゃるのならば、わたしの少々意地悪な質問にひとつ答えていただきたい。その質問とは「人の(社会の)役に立ちたい」という感情は利己的要素を含んでいないのか?というものである。この問いに対して恐らくあなたはこうお答えになるだろう。「確かに利己的要素を含んでいるかもしれない。しかしそんなことを言っていたらすべての行為が利己的行為になってしまうではないか。」と。そう、その通りなのである。利己的でない行為など存在し得ないのだ。
 つまり、厳密に言えば利他的行為は利己的行為の一種なのである。



2.「利己的行為」としての善悪の分類



 今までの議論をまとめると「利他的行為」と呼ばれる行動、即ち「善行」も利己的行為の一種として含まれるということになる。もちろん先述の通り「悪行」も利己的行為として認識されている。ここで皆さんには善悪についての認識を改めてもらわねばならない。すなわち、善と悪の相違とはあくまで利己的な欲求という大きな枠組みの中での形態・種類の相違に過ぎないということである。そこで気になるのがこの新たな定義の中でその相違をどうとらえるべきかということである。以下でそのことについての検証を進めていきたい。
 先程、(社会通念上の)善悪の判断基準は他者・社会・組織に対する貢献度であるということを述べた。そして、これを基準として善悪を分類していると言うことも併せて述べた。つまり、端的に言えば他者・社会・組織に対する貢献を目的とする行為とそれ以外の個人的な欲求の充足を目的とする行為である。ここで、この二種類の欲求についてその特性を検証することで、これら二種類の行為の本質的な相違をあぶりだしていきたい。
 まず、個人的な欲求にとは何なのか考えてみよう。ここで「個人的」欲求について突き詰めて考えると自己の存在の維持、繁栄に目的とする欲求と言えるだろう。もちろん自己個人の範囲内といってもその欲求を満たす「対象」は必要になってくるがそこで「他者」を意識する事はない。このことはたとえその欲求の対象が人間或いは社会などであったとしても同様である。そして、この欲求の充足によって他者或いは社会と利害の対立、衝突を生んだ時、世間では「悪」と定義されるのである。つまり「自己の存在の維持・繁栄を目的とする」という定義を満たす欲求のうちで他者・或いは社会と対立するという条件を満たすものについて「悪」と定義しているのである。
 では「他者・社会組織に対する貢献を目的とする」行為とは本質的には何を求める行為なのだろうか。この答えについては「客観的な正当性の付与」であると私は考えている。すなわち、他者・社会・組織から「自らの存在価値を認めてもらいたい」という欲求なのである。自分が必要とされているという事実によって客観的な自分の価値を証明したい、人はそう思うのである。先に述べた「自己の存在の維持・繁栄を目的とする欲求」を満たすだけでは自らが存在することについての客観的正当性は認められない。皆さんもただひたすら本能的な欲望の赴くままに行動して、その後になんとも言えない虚しさに襲われたといった経験をお持ちではないだろうか。その虚しさは自分自身に存在意義、すなわち「客観的正当性」が認められないことから来る虚しさなのである。
 しかし、「客観的な正当性」は他者や社会に貢献する事によってのみ付与されるものではない。実は他にもたくさん方法があるのだ。たとえば宗教を信じ、その宗教によって自らの存在価値を証明してもらう、高い地位につく、「他人と比べて」豊かな生活を送る(この場合「他人に比べて」に比重が大きく置かれている。ブランド物を見せびらかす行為などが典型例)、リーダシップを発揮するなどである。よってこれらの行為は「善い行い」の代替行為として成り立ち得ると考えられる。「ボランティア活動の代わりにブランドバック・・・」いきなり聞くと違和感があるかもしれない。そこで読者にはベタなドラマにありがちな臭いセリフを連想してもらうことにしよう。
 「私はあの娘みたいにお金持ちでも美人でもないわ。でもわたしには必要としてくれる子供たちがいる。あの子達は毎朝毎朝私のことを待っててくれる。だから私は自信があるの。あの娘より幸せだって自信が・・・」




3.善悪という定義をこえて



 そろそろ結論に入りたい。これまでの議論に目を通していただければ分かると思うが私は人間の行動を善悪の枠組みで分類する事は適切とは思っていない。
 先述の通り私は善行、悪行を全て利己的欲求として捉え、善行、悪行はその欲求の種類が違うだけだと考えている。しかも私はその欲求も善・悪の枠組みだけでは正確に分類できないとことに言及した。ここで改めてその欲求の分類を述べ人間の本質について考えてみようと思う。
 人(や生物すべて)はその宿命として、自らの存在の維持、発展に努めなくてはならない。人は「本能的欲求」を中心とする様々な個人的欲求を充足する事によりこの目的を達成してきた。しかし、人はそれだけでは自己が存在する事の客観的正当性が付与されない、自らの存在意義が見出されないということに気付いた。
 そこで彼らはそれを求めるようになった。しかし客観的正当性と言ってもそれを与える存在を見いださなくてはならない。このような流れからある者は宗教に走り、ある者は高い地位を求めた。また他のある者は自らの優越を証明するために隣人を侮蔑し、別のものは他者に必要とされるような行動を嬉々としてとった。これらはすべて客観的正当性を求める行為だ。そしてこれらの行為の中には当然、「善、正義」を求める行為も含まれている。また、基本的にはその人間が所属する社会、組織に対して忠実である事をもって善とされるケースが多いようだ。
 私は人間のあらゆる行動を、自己の維持発展を目的とする欲求、客観的正当性を求める欲求という二種類の欲求に基付くものであると考えているのである。
そして、最後に善行は後者に悪行は前者に分類される行動だということを改めて述べておきたい。



4.本論に関連して・・社会とは人体の如くなり



 「人は客観的正当性を求める」というこの定義を人間社会に具体的に当てはめてみたらどうなるだろうか。社会における統治者や人民の行動が説明できないだろうか。統治者は人民を上手くまとめ上げ、自らがその地位に居続ける事によって社会における正当性を付与される(人民に対する比較優位によって)。そのために人民はこうあるべきだ(当然統治者が円滑に統治でき、その地位を保持続けるための都合も含まれる)と指導し、人民はそれに従う。従う人民も統治者の指導に従う事によってその統治者を頂点とする社会に認められ客観的正当性を与えられる。しかしこれがエスカレートすると自らを統治する組織・統治者の為、命をもなげうつと言う者も出てくる。自らの存在の正当性を守る為に自らの存在自体を放棄するのである。この一見奇怪な行動も「客観的正当性」という視点を応用すれば見事に説明が付くのである。ところでこの統治者と人民の関係、私たちと人体の関係にそっくりと言えないだろうか。人体においては我々「自我」こそが統治者である。そしてそれを維持するために臓器など各器官がありそれを構成する細胞がある。なかには自らの命を賭してまで我々のために戦う白血球のようなものもいる。そう、自我を統治者にたとえるなら我々人民は細胞や白血球なのだ。しかし中にはひねくれてその責務を果たそうとしない私のような人間もいる。そんな人々は例えるなら癌細胞と言ったところだろう。しかし癌細胞は癌細胞で辛いものである。人体が健康である限りその他の細胞や器官に攻撃され、滅ぼされてしまうのだ。怠け者の私も改心して少しは社会に貢献しておいた方がやはり身のためなのかもしれない。



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