私は非常に不愉快だった。到底納得いかなかった。期待外れもいいとこだった。男性の私がこうしてケーキ店に席を陣取ること自体相当の勇気がいるのに、その代償がこれだったのだ。大人げないとわかっていながらも私は激情を抑えられなかった。しかし、目の前にある食べかけのチーズケーキは私の視界の中心を離れようとはしない。チーズと卵を絡めてできたスポンジはまさに母の愛を象徴するかのように優しい色をしていたし、適度な柔らかさを想像させる膨らみは私の舌を求めているようにすら思えた。そのことがかえってこのケーキに対する私の怒りを増幅させていった。もう一度、視覚から味覚へと感性の中心を移してみる・・・やはり私は裏切られたのだ。最初から口になどしなければ良かった。こんなことならば、視覚で得た幻想に浸っていればよかったのだ。しかし現実を知ったいまとなってはもはやそれすらかなわない。わたしは、目の前にあるチーズケーキをパタンと横倒しにした。その味にふさわしい姿にするために。飾り付けのブルーベリーが二粒、ポトリと落ちた。


 気分を落ち着けるために、私はセットでオーダーしたコーヒーを一口すすって、辺りを見回してみた。白を基調とした明るい雰囲気の店内には甲高い声で談笑する女性グループが何組もいた。皆ケーキの味などは二の次で、他愛もない会話に夢中である。そんな中、他の客とは少々様子の違う女性が一人いて私の目を引いた。年の頃は二十五といったところだろうか、光沢を帯びた長い髪に端正な顔立ち、その中でも男性的でキリリとした目が印象的であった。しかも、彼女は沈痛な面持ちで、何故か私の方をじっと見ていた。当初は私の大人気ない激情を見透かして、軽蔑の眼差しを送っているのかと思った。しかし、それにしては彼女の表情は深刻すぎた。どうしても気になるので、改めて彼女の視線を辿ってみた。その先に何があるかを知って、私はますます混乱した。彼女の視線は、横倒しにされた私のチーズケーキに向けられていたのである。
 彼女の方もようやく私の詮索に気付いたのか、私の顔へと目をやった。視線と視線がぶつかりあった。私は肩をすくめて、首を少し縦に振った。さすがに気まずいので、早々に店を退散しようと私は伝票に手を伸ばし、席を立った。 その時だった。背後にヒステリックな叫び声が響き渡った。店内の和やかな空気も、談笑も、すべてが吹き飛んだ。私は思わず振り返った。彼女だった。しかもその声は私に向けられたもののようだった。
 「わたしの話。わたしの話を・・・」
 つり上がった二つの大きな瞳が私を射抜いた。その瞳は私を脅迫し、かつ誘惑していた。


 私はホットミルクをオーダーし彼女に勧めた。彼女は力なく笑うと、それを少し口に含んだ。一口、二口とミルクが口に運ばれるにつれて、彼女は徐々に落ち着きを取り戻していった。
 「チーズケーキ」
彼女の口から発せられた最初の言葉は、やはりこれだった。
 「チーズケーキ、そう、横倒しにされたチーズケーキがそこにあったの。」
 「あのひとはそこで事切れてた。横倒しのチーズケーキを見つめながら・・・」
 「驚いた。そのあとに怖くなった。」
 「でも最後は、笑ってた。ケラケラ笑ってた。」
 「あまりにもお似合いだったから。あのひとと、そのチーズケーキが。」
ポツリ、ポツリ。彼女は控えめに口を開いた。私の目の前にある彼女の瞳は無機質だった。
 「それはお気の毒に」
私はとりあえずそう答えておいた。しかし、正直、あまり実感がわかなかった。どこか気が抜けたような口調だったからだ。彼女のほうも、私の言葉になんら反応を示すことなくまたゆっくりと口を開いた。


 「十八の夏だった。わたしは喫茶店にいた。一人で本を読んでた。眉間にしわを寄せて、一人で本を読んでた。正直、かなり機嫌が悪かったの。その本のせいだった。物語の展開が全然わたしの思い描いてた方向にいかなくて。話が進むにつれて、見習いコックの主人公もなんか嫌な奴になっていったし。だって悲惨でしょう。小説の世界ですら思い通りにいかないなんて。」
 「僕もそれはちょっと耐えられないかもしれない」
私はそう答えると、横倒しにしたチーズケーキに一瞬目をやった。
 「本当に歯痒かった。だから、気晴らしにケーキでも頼もうと思って、メニューを開いたの。でも、わたしが注文するより前にケーキは現れた。あのひとと一緒にね。しかもわたしの大好物のチーズケーキだった。繊細でやさしい色をしてた。ケーキを一口食べてみた。そして思ったの。似合ってるなって。目の前の席で頬杖を付いてた、あのひとに。見習いコックのことなんてもうどうでも良くなった」
彼女もまた、私のチーズケーキに目をやりながらこういった
 「あのひと、わたしの顔があんまり不機嫌そうだったから気になって仕方がなかったみたい。 だからわたしに声をかけたんだって」
 「僕も一度でいいからそういう出会いをしてみたいな」
 「わたしも」
彼女はそうつぶやくと、艶やかな長髪を指で少し玩んだ。


 「その後、あのひとのことを深く知るようになった。コピーライターをやってること、お父さんは商社マンで、妹が一人いること。お母さんは田舎育ちで、鰈の煮付けをよく作ること。人差し指のペンだこが、触れると硬くて痛いこと。理想的だった。わたしが望むままにすべてが形作られているみたいだった。あのひとを見るたびに思った。『わたしの夢がここにいる』って。」
言葉の節目節目で大きく首をたてに振りながら、彼女はゆっくりと言葉を放った。
 「でも、あのひとはわたしの夢を叶えてくれるだけの存在じゃなかった。あのひとがわたしに夢を教えてくれた。わたしの夢はあのひとによってもたらされ、あのひとによって叶えられた。わたしはあのひとに前では無力だった。無力さに気付かされるたびにわたしは幸せを噛みしめてた。
会う約束をすると、必ず五分前にはあのひとのアルファロメオがあらわれて、わたしを拾っていく。そして近くの海岸線を走り抜け、行きつけの小さなレストランへと滑り込む。帰りにあの人がそっと流すBGMに耳を傾け、またひとつ幸せを発見する。こんな日々。」
彼女のおのろけ話は延々続いた。 思い出をかみ締めて、思い出の味を少しでも引き出そうと必死に努力しているようだった。彼女は私の存在をあまり意識していなかった。どちらかというと邪魔者なのかも知れなかった。彼女の行為を正当化するために便宜上存在しているといった感じだった。私は、私の気配が彼女の世界をかき乱さないように気を配った。


 「ホットミルクをもう一杯、頂けますか」
半透明の存在になっていたはずの私に彼女が声をかけた。「どうぞ」わたしがそう答えると彼女は申し訳なさそうに会釈をした。彼女は運ばれてきたホットミルクを手に取り,時折口をつけた。しかし、彼女は先程とはうって変わって、言葉を発する事はなかった。彼女の手は微かに震え、ホットミルクの表面が小刻みに波立っていた。明らかに何かに怯えているようだった。しかしそれが何であるかは彼女の言葉によってしか知ることはできない。私は再び彼女が言葉を発するのを待つより他はなかった。ホットミルクのほとんどが彼女ののどを通って、彼女の右手に握られていたマグカップの底がようやく透けて見えるようになった頃、彼女はついに意を決したのか、再び口を開きはじめた。


 「ふきのとう。あのひとが食べてみたいと言い出した。驚いた。あのひとはふきのとうなんか好きなはずがないもの。好きであってはいけないはずだもの。あのひとがそんな野草なんかを食べようとするなんて。信じられなかった。少なくともわたしの中ではあのひとはふきのとうなんて好きじゃなかった。でもあのひとは『鮮やかな黄緑が食欲をそそる。元気がもらえそうだ。』って。そういった。」
彼女は意識的に感情を殺していた。その大きな瞳は微動だにしなかった。まるで人形のようだった。しかし、その人形のような表情が彼女の美しさを引き立てているのもまた事実だった。
 「それから、あのひとと過ごす時間が怖くなった。『またあのひとがあのひとらしくないことをするかも知れない。』そう思ったの。でも、しばらくそんなことはなかった。今まで通りに、あのひとはわたしの望みを叶え、夢を見せようとしてくれた。ただ、わたしはあのひとと別れるたびに、ほっと胸をなでおろすようになってた。
そうこうするうちに、ふとわたしの中である考えが浮かんできたの。 あのときチーズケーキと一緒にわたしの目の前に現れたあのひとはいつの間にかわたしの前から姿を消してたんじゃないか。今、わたしが恋人だと思っている男はにせもので、わたしの恋人を演じているだけなんじゃないか。わたしはずっと騙されてたんだんじゃないかって。自分でもびっくりした。何て、ばかばかしくて、滑稽で、恐ろしい考えなんだろう。もちろん、『そんなはずない。そんなことそもそもあり得ない』って必死で自分に言い聞かせたわ。でも、この考えをわたしの中から追い出すことはできなかった。傷口を押さえても押さえても、またそこから血がにじみ出てくると同じように、忘れようとしても、忘れようとしてもいつの間にかこの考えがわたしの心を占めていくの。どうすることも出来なかった。
しばらく経つと、わたしはその妄想じみた考えに取り付かれて、後戻りできない状態になってた。わたしは決心した。『この男がほんものなのか、にせものなのか確かめてやろう』って。それから、あのひとと一緒に暮らし始めた。あのひとは無邪気に喜んでた。私の本当の目的も知らずに。わたしはあのひとの行動をずっと監視してた。 『もし目の前の男がにせものなら、必ずボロを出すはず。わたしの恋人とはとても思えないような、そんな事を絶対にやるはず』ってそう思ったから。」
彼女の発言は徐々に狂気じみてきた。だが、私には不思議と違和感がなかった。むしろ、私は彼女の発する言葉に徐々に引き寄せられていった。


 「ついにその時がきた。あのひとと出会ってから一年目の記念日だった。わたしはケーキを買ってきた。もちろんチーズケーキ。あの時と同じお店のチーズケーキだった。お皿に盛り付けた後、しばらく見とれてた。明るいたまご色。わたしの心がゆっくりとケーキに包まれていった。あのひとにも見てほしかった。あのひとはしかめっ面をして机に向かってた。わたしは、驚かせてやろうと思ってあの人の目の前にそっとチーズケーキを置いた。でも、あのひとにとってチーズケーキはただのチーズケーキでしかなかった。あのひとは『おっ、サンキュー』、といい終わらないうちにチーズケーキをフォークでなぎ払って、パタンと横向きに倒した。酷い姿だった。血に気が引いていくのを感じたわ。さらにあのひとはそのフォークを横倒しのケーキに深々と突き刺した。わたしは『やっぱりにせものだった。』ってそう思った。それと同時に、あのひととの思い出が、いや恋人としてのあのひとの存在自体が、消えてくような感じがした。目の前の男がいる限り、わたしの恋人は消えてしまう。わたしの大切な思い出がわたしの中から抜き取られてしまう。なんとかしなきゃって。だから・・・」
 「目の前にいたその男を葬ったんだね。」
言葉に詰まった彼女に代わって私は口を開いた。彼女はチロリと私の目を覗き込むと、かすかに首を縦に振った。
 「あのときのわたしはどうかしてた。でもやっぱりわたしの求めていた人はあのひとじゃなかったと思うの」
 「そうだね」
私は大きくうなずき、彼女の目をじっと見据えた。
 「あなたの恋人はあなた自身だった。いや、正確にはあなたがあなた自身のために作り上げた幻想だった。あなたはその男をモデルにして理想の恋人を自分の中で作り上げていたんだ。そしてその幻想を守るために、現実を葬った。」
 「でも、その幻想も今となっては重荷でしかないわ。」
そうつぶやくと彼女は再び目の前にある横倒しのチーズケーキに目をやった。その後、彼女の視線がそこから動く事はなかった。私のそのケーキに対する怒りはすっかり冷めてしまっていた。




 


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